自己紹介

自分がガンを体験した方は 「なぜ私が!と泣き明かした」 とよく言われています。でも私の場合は違いました。

分かっていただく為に、 まず私の生い立ちを簡単にお話ししたいと思います。

私の生い立ちについて

私が幼少の頃から父母の仲は悪く、 貧しい生活の中で育ちました。いつしか「◯◯してはいけない」という風に 自分に 我慢をさせるような子供に育っていました 。

小学校時代、お友達の家に遊びにいくと、「なんでつばささんの家に遊びにいけないの?」と聞かれていました。家が貧乏だったうえに自分の部屋が無くて呼べなかったからです。それから私は深い付き合いを止めるようになりました。

中学時代は、成績は良いとは言えませんでした。看護師になるのが夢で、入試のとき合格するのは厳しいと言われて断念。憧れていた女子高の制服の商業科に進路を変えました。

そのころ父は酒癖が輪をかけて悪くなり、高校に行かないで就職しろと言われました。

ですが、奨学金制度で高校へ入学しました。中学時代とは違い、勉強には力を入れ、就職活動をする段階でクラスで3番以内に。いつしか私は銀行員になることを夢見ていましたし、間違いなくなれると思っていました。

しかし進路を決める際に「家が貧乏。 親戚もお金持ちがいない 。身辺調査があるから合格できない」と 担任の先生から告げられ、努力しても報われないということが身に染みて分かりました。

当時の奨学金は返済免除が無かったのですが、今なら免除されたかもしれません。

就職

銀行員の夢が断たれ、クレジットカード会社に就職。入社式のときスーツが常識だったのですが、買えなかったので普段着で出社せざるを得ず、怪奇の目で見られたことが忘れられません。悔しかったです。

同期の仲間は給料の度に貯金の話で盛り上がっていました…
ですが、奨学金の返済と食費として3万円を家に入れてた私は自由に使えるお金はほぼありませんでした。

ここまでの経験で孤立しては損することを学んだ私は、仲のいい同僚と行動していたのですが、交際費用が正直苦しかったです。

そして恋愛結婚して退職。式の費用も互助会に入っていたので自分で工面しました。

結婚と離婚

結婚できたら普通の生活、老後は二人でお茶でも飲みながらゆっくり話をする…そういう生活ができると信じていました 。

やっと『◯◯してはいけない』から解き放された。そう思ったのです。

でも性格の不一致から離婚。下の子供が高校生になる前に決意しました。 苗字は変えませんでした 。子供がいじめに合わない為でした。

暮らしが一変。 私は子供との時間を大切にしたかったので正社員ではなくパートを選択しました。

掛け持ちで収入を得ました 。たどり着いたのがコンビニでした。一生懸命働きました。 直営店のコンビニでした 。
本部の方に認められた私は、コンビニ経営をやらないかと誘われました。

本来なら 保証人が必要 。でも私を信用してくださり保証人はなし。おまけに 380万円の借金は売り上げの利益から少しずつ返済という条件で契約しました。
売上高は良く、借金もあっという間に返済。5年後には2店舗経営の夢が目前でした。大きな病気とは無縁で健康診断でも異常は出ていなかったので、油断していました。

ある日、首にこぶし大の歪な塊が出来ていることに気づきました。ガンでした。

末期ガンと闘病

これについては別のページでそれぞれ紹介しています。

「①悪性リンパ腫Ⅳ期~1度目の経過観察まで」の箇所です。

このガンが原因でコンビニ経営を断念せざるを得なくなりました。

一度目の寛解から二度目のガンまで

末期ガンから生還して仕事に復帰したのですが、2年後に違和感を感じ、再び病院へ行きました。

大腸ガンが発覚。失業して再び闘病の日々に。

経過観察のときに白内障に・・・

二度目のガンの経過観察の際に白内障になり、手術をすることになりました。

その後はトラブルも無く経過観察も終了。2020年の初めにようやく二つのガンから解放されました。

ハッピーノートとの出会い

2019年の暮れにハッピーノートを知って、エックス(旧Twitter)を通じて開発者の小河氏とつながってハッピーノートアンバサダーを担当。ガンから解放されて楽しい生活が始まる、はずでした。

3度目のガン予備軍に

2021年8月、突然の右顔リンパ腺に激痛が走りました。その後組織検査で硬口がいガンの1歩手前と診断。

ふたたび闘病日記が増えていくことになりました。